※もう6年も前になりますが、『ヒゲのウヰスキー誕生す』を読んだ感想を別のところで書いていたので、それをそのままコピペします↓
子供の頃から、ウイスキーの蒸留所は身近なものだった。
町内にサントリーの山崎蒸留所があり、近くまで行くとウイスキーの香りが漂ってくる。
そんな環境で私は育った。
人生の途中で大阪市内に暮らしたこともあったけれど、結局今はこの地へ戻り、今も風に漂うウイスキーの香りを感じられる場所に暮らしている。
風が変わると、ウイスキーの香りも変わる。
こんな贅沢なことってあるだろうか。
それでも、ウイスキーというものに心惹かれるようになったのは、いつからだろうかと思う。
うちの両親も姉も全くアルコールを受け付けないので、家には料理酒以外のお酒が置いてあったことは一度もない。
私一人が「どうしてあんたはこんな酒飲みになったのか」と親に嘆かれているわけで。
ウイスキーより先に40度のアルコールになじんだのは、大学生の頃にライブハウスで飲んでいたマイヤーズラムだ。
安いラム酒をいつも流し込んでいた。
喉が焼けるほどの酒をなぜ飲むのかわからなかったが、とにかく「懲りない」人間なので、何度でも同じことをやる。
そのうち焼けるような感じはなくなり、水のように40度の酒が飲めるようになった。
そうすると、もともと飲み食いするものにはこだわって生きてきたので、少しでもおいしいものが飲みたくなる。
そこからウイスキーへと移行していったのだ。
「ストレートでスコッチを注文される女性はあまりいないので」
バーでよく言われた言葉。
それで覚えてもらうことが多く、すぐに馴染みになった。
今でも2軒は「お久しぶり」とマスターと会話できる馴染みのバーが高槻にある。
中でも1軒は一人で行くことの多い店で。
あまり飲まない人との食事の後で物足りない時と、真夜中に終電をなくした時に必ず一人で寄る。
スナックなどが入る古いビルの2階。
素通りする扉の向こうから、楽しげな声も聞こえてくる。
階段を上って奥の扉を開けると、カウンターだけの小さな空間があって、マスターが私の顔を見ると「いらっしゃい」と優しく微笑む。
照明の色が暗すぎず、明るすぎず。
柔らかい琥珀色の灯りに包まれて、いつもまるでウイスキーの中にいるみたいだと思う。
とても柔らかい灯り。せつなくなるほどに。
目の前にはたくさんのボトル。
キラキラ輝いていて、それを静かに一人で見つめながら、美味しいスコッチを飲むのが好きだ。
グラスを傾けて。
琥珀色の世界を見つめて。
そんなふうにいつの間にかウイスキー好きになってしまった私は、サントリーの山崎、白州、ニッカの宮城峡、余市と、日本の4大蒸留所をすべてまわった。
サントリーとニッカは随分違う。
サントリーの蒸留所やそのアピールの仕方が華やかでそつがないのに比べて、ニッカはどうも堅物で不器用な感じがする。
日本の二大ウイスキーメーカーでもこうも違うものかと不思議に思っていた。
その理由が、この本を読んでよくわかった。
「ヒゲのウヰスキー誕生す」著:川又一英(新潮文庫)
ニッカの創始者、竹鶴正孝の自叙伝的物語。
彼がウヰスキーにかけた想いと、彼を支えたスコットランド人の妻・リタの物語だ。
日本で「ウヰスキー」と呼ばれるものが売られるようになった頃、出回っていたのは本物のウヰスキーではなかった。
国産はすべてイミテーション。
アルコールに砂糖と香料を加えただけのものだった。
いつの時代もいち早く「本物」を追求しようとする人はいるもので、政孝の勤めていた会社の社長が「本物のウヰスキーを造るんだ」と決意し、政孝をスコットランドへ送る。
政孝は閉鎖的なスコットランドの蒸留所で懸命に教えを乞い、必死に学び、本場のウヰスキーの醸造法を得る。
そして、政孝はそこで出会ったリタと結婚し、彼女を連れて日本へ戻るのだ。
しかし、帰国しても元の会社でウヰスキーを造ることはできず、政孝は退職。
今のサントリーの創始者・鳥井のもとで10年間の契約を交わし、ようやくウヰスキーを造ることができる。
その時に彼が見初めたのが「山崎」という土地だった。
宇治川、木津川、桂川の3つの川が淀川に注ぎ込む合流地点。
良質の地下水が湧き出るばかりか、濃霧が発生しやすく湿度も高い。
ウヰスキーを造る条件は揃っている。
しかし、良い条件は揃っていても、美味しいウヰスキーを造ることに成功はしても、その当時の日本で売るのは難しかった。
まず、ウヰスキーというのはできてすぐに売れるものではない。
樽の中で長い年月を経て、ようやく育ち、飲み頃となるものだ。
そういう文化が日本にはなく、納税の関係やら会社の財務的な問題やらで、本当の飲み頃を見て販売することはできなかった。
また、販売したところで、当時の砂糖&香料のアルコールに馴らされた日本人に、本格的なウヰスキーの味は好まれなかった。
10年経って、政孝は北海道の余市に自身の蒸留所を建て、そこで自身が求めるウヰスキー造りを始める。
妻・リタに支えられながら。
戦争が始まり、西洋人の妻やウヰスキー文化が迫害されることがあっても、政孝は決してイミテーションのウヰスキーを造ることはなかった。
どんなに経済的に逼迫しようとも信念を曲げることはなかった。
サントリーのトリスが売れる。
ほんの少し妥協をすれば、売れる酒を造れる。
それを痛いほど理解しながらも、政孝は決して折れない。
――合成色素やエッセンスを使ったら負けだ。本格ウイスキーをこころざした意味がなくなる。
竹鶴はブレンドを続けながら、みずからに言い聞かせる。
確かに、見かけや安さに魅かれて他社の三流ウイスキーを買い求める客は多い。
しかし、彼らの舌がひとたび本格ウイスキーというものを知ったら、模造ウイスキーや合成添加をほどこしたウイスキーなど受け付けようとしないはずだ。
残念なことにそれが知られていない。
加えて、戦中戦後の物不足のなかで、酔えるものなら何でもよいという風潮ができあがっている。
客も、酒を売る者も……。
政孝はこう思いながら、意地でも三流ウイスキーを造るまいとするのだ。
これを読みながら、日本酒のことを思い出していた。
結局は同じ。
戦中戦後の物不足と規制のなかで、まともな酒を造ることができなかった。
だけど、その時代のやり方とそれでもいいと酒を求めた人々を、誰が責めることができるのか?
そんなことは今の豊かな時代に生きている者の傲慢さに過ぎない。
決して肯定するわけではないが、「そうするしかなかった」という時代はあるのだ。
最後まで抵抗し続けた政孝ですら、三流酒に手をかけることはなかったものの、三流酒のために原酒を売るというところまでは妥協する。
生きていくため、従業員を養うためには、仕方のない選択だった。
それでも。
それでも、この本を読んでいると、ひたすらに本物のウイスキーを求め、信念を曲げない政孝の姿に心打たれる。
そして、それを支えるリタにも。
まだ国際結婚などほとんどなかった時代に、スコットランドから単身、政孝だけを頼りに妻として海を渡った。
その勇気と愛情に何度も涙した。
政孝のウイスキー造りの夢は、リタの夢でもあったのだ。
3年前、北海道の余市蒸留所を訪れたことを思い出す。
普段、サントリー山崎蒸留所を見ているだけに、なんだかその違いに驚いた。
広くて、静かで、とても淋しい土地だった。
華やかさはまるでない。
だけど、ただひたむきで、頑固で、まっすぐな創始者の心がわかる土地だった。
今、竹鶴17年を飲みながら、これを書いている。
上品なフルーティーな香りとウッディな香り。
ややスモーキーさもあり。
飲み口は柔らかいのに、芯のある熟したコク。
地味だけどガツンとくる、でもどこか品のよい、政孝のイメージのウイスキー。
今宵もまた琥珀色のグラスを傾けて。
Comments